新民家プロジェクト・背景

 1879 年まで、沖縄はこのような風景を持つ独立王国でした。 琉球王国時代の社会生活を、建築、集落づくりを通してリサーチしてみると、環境の持続可能性が高く、美しい社会風景を構築していたことが見えてきました。しかし、このような風景は現在、田舎の一部に形骸化したものしか残っていません。戦後から続く経済発展の負の側面として、自然環境や、歴史性を踏まえた社会風景に危機的な状況が現れています。この状況に対して、建築家として打てる対策はないかと思考し始めました。

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琉球の林業
琉球王朝時代の林政から見る持続可能だった文化

 琉球王国は1420 年に統一されてからは、中国・ 朝鮮のみならず東南アジアを相手とする中継貿易の拠点として繁栄し、「万国津梁」の繁栄の時代を形成しました。しかし、1600年代に入り、徳川幕藩体制や中国からの圧力が増すと、貢納のため森林伐採を伴うサトウキビの生産量が増えたこと、さらに、海上交通の発達から造船に使用される木材も大型化した流れにより、森林資源が枯渇しました。1709年の首里城の火災に至っては自力での再建もままならないほどとなりました。

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1700年代の林野改革を主導した政治家「蔡温:1682-1762」

​ 国家の存続すら困難な状況に追い込まれた琉球王府は、統治の実質的責任者であった蔡温に命じ、様々な角度から改革に乗り出します。まず森林、農地、河川の状況を調査し、その生産力と消費状況を明確にしました。そして、農地不足対策と持続的な山林資源均等配分を目的とした森林保護、森林育成の技術と方策をまとめました。そのためには、集落移転まで行い、その集落景観構造、住宅の敷地面積、構造材の種類に至るまで一貫した方策の元に改革を行いました。これはすなわち、その土地の生産力と島民の消費量を見極めた定常的な持続を目的にした環境的視点のある国土計画であり、現代政治では欠落している視点といえます。

 驚くことに、この改革は、森林環境にとどまらず、その根源である島民の精神・道徳の向上を目指し、王国の封建的な政治の中にありながら弱者救済と相互扶助の精神(ゆいまーる精神の原点)を根付かせました。こうした再生が進む中で、農業、商業の振興、士族の失業対策、古典舞踊の創作、古歌謡の採録、言語辞書の編集、工芸までもが発展し、現在に見る琉球文化の形が爛熟したと見れます。

森林を遠望して林相の見分け方を林政八書の中の「杣山方式帳」で図説している
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梢が整った筆尖状は幼齢林

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枯枝・曲枝が多い林相は荒廃林へ移行する林分

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龍球状で樹形が整った林相は成長林

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枯れた枝が見えるのは荒廃林

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鱗状は盛りきまわった林分

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枝葉とススキ等が生えている所は森林ではなく藪山

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魚鱗が抜けたように見えるのは伐採した跡

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樹枝が見えるのは良木が残ってるが大径木は伐採された林分

衰退した林業
廃藩置県以後から現在までに見る林業の衰退

​ 国家の存続すら困難な状況に追い込まれた琉球王府は、統治の実質的責任者であった蔡温に命じ、様々な角度から改革に乗り出します。まず森林、農地、河川の状況を調査し、その生産力と消費状況を明確にしました。そして、農地不足対策と持続的な山林資源均等配分を目的とした森林保護、森林育成の技術と方策をまとめました。そのためには、集落移転まで行い、その集落景観構造、住宅の敷地面積、構造材の種類に至るまで一貫した方策の元に改革を行いました。これはすなわち、その土地の生産力と島民の消費量を見極めた定常的な持続を目的にした環境的視点のある国土計画であり、現代政治では欠落している視点といえます。

 驚くことに、この改革は、森林環境にとどまらず、その根源である島民の精神・道徳の向上を目指し、王国の封建的な政治の中にありながら弱者救済と相互扶助の精神(ゆいまーる精神の原点)を根付かせました。こうした再生が進む中で、農業、商業の振興、士族の失業対策、古典舞踊の創作、古歌謡の採録、言語辞書の編集、工芸までもが発展し、現在に見る琉球文化の形が爛熟したと見れます。

糸満1935
糸満2018
糸満中心部、標高約20メートルの石灰岩の丘・山巓毛(さんてぃんもう)から見た眺望。
出典元:朝日新聞・久松弘樹撮影
本部採石場の移り変わり